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SOYBEAN's Inc.

社長は思います。もっと楽に、楽しく。生きていきたい。この度新しく会社を立ち上げました。SoyBeanです。 社長はというと、うつ病・強迫性障害と日々戦っています。

強迫性障害の境界線〰

 

今日は太陽はポカポカだったけど、

風が強かったですね〜。風が冷たいというか。

なんとなくまだ油断できない季節ですね。

最近は、太陽の光を浴びて、すごく気持ちいいって感じます。

でも、ずっと外にいると、座ってるだけでも疲れちゃうんです。

なんというか、何もしてなくても、何もしてないと思っていても、体や心はストレスを感じてるんですね。

 

ところで、今回のブログのお題でもある、

強迫性障害の境界線』

なぜこのお題にしたかというと、

強迫観念というのは誰もが持っているものだからです。

〜しなくてはならない。〜でなきゃいけない。

〜しなきゃ。自分とは〜だ。などなど。

これまで私のブログを見ていただいていた方々も、ひょっとすると共感してしまうところや、自分って強迫性障害なんじゃないだろうかと思ったりした方もいたかもしれません。

そこで、私の思う(あくまでも私の考えです)、強迫性障害と、そうでない人との境界線をお伝えします。

 

生きていれば必ず、

期限や時間に追われたり、1日のうちにやらなくてはならないことがあります。

そしてそれにプラス、自分もしたいことがあります。

例えば、絵を描いたり、手芸をしたり、、、

趣味があるとおもいます。楽しいと思う時間。

やらなきゃ、やらなきゃ。やりたい、やりたい。それも、いや、それこそ強迫観念であると思います。

 

やらなきゃならないことと、やりたいことをして毎日を送っていると、必ずストレスを感じます。自分が期日や時間、周りなど環境から縛られたり、気づけばやりたいと思っていることからも縛られたり。

一日中座ってたって、一日中寝てたって、

体や心はストレスを感じています。

つまり、ストレスレスな人生はありえないのです。

自分をいっさい縛らない人生というのは、おそらくないのでしょう。

しかし、そのおかげで、そのストレスのおかげで"幸福"というものが存在します。

この文字だけ見ると、奇妙な話ですが、

すきなことだけをして生きていたとして、嫌だと思うものすべてを排除してきたら、すきだと思ってやっている日々のことは当たり前のことになり、すきなことがすきではなくなり、日常が楽しくも、苦しくもない、いつか無になってしまう…のではないでしょうか。まぁ、私はそこまで究極に生きたことも、生きた人を見たこともないのでわからないですがね。笑笑

けど、私ならそうなると思います。

 

母と今朝話していて、母には人生で"仕事"のノルマというものがあり、ノルマに達しない、頑張りきれてないときは自分にご褒美はあげない。とのことです。

毎日忙しく生きてる母なのに!家事や現場仕事、事務仕事、全てをやっていて、私から見たら毎日忙しなく、大変そうな母なのにです!そもそもノルマに達しないことがあるのか!と思いましたが。

 

私は最近ご褒美をたくさんもらっています。

日常生活で、今までできなかったことができるようになったことも幸せではありますが、そのほかに欲しい物を手に入れまくっています。いけませんね。

最近、私は100均中毒にな…その話はまたあとにしましょう。

 

母いわく、自分の中にあるノルマを達していない状態でご褒美(趣味、すきなことをすること)をあげると、麻痺して、ご褒美がご褒美で無くなるとのこと。でも確かにそうですよね。さっきも書いたようにストレスのおかげで幸福を得られるので、ストレスはある程度、自分を縛るなにかは多少あった方が良いのです。ただ、どんどんどんどん縛りをきつくしてしまうと、苦しくなってしまうのです。

 

話が遠回りになってしまいましたが、

みな、強迫観念と戦っています。

でも強迫性障害というものは、また少し違ったものなのです。

そこを間違えてしまうと、悲観的になってしまったり、強迫性障害の人をむやみに傷つける事になってしまいます。

強迫性障害とは、自分を縛る行為が行き過ぎてしまい、きゅうくつで仕方なくなってしまった人のことです。生活に支障をきたすほどに自分を縛り、ノルマを果たせない自分を必要以上に罵ってしまうのです。そして、必要のない事にまで追われ縛られてしまうのです。

私の場合、右手で触ったら左手でも触らなきゃいけない。

家族の安全を誰よりも誰よりも(これも強迫観念)願っているのに、ふと突然、家族に危険が降りかかる映像が頭に浮かんでしまったりします。とにかくとにかく嫌な、想像もしたくないことが頭を駆け巡る。妄想なのか、なんなのかもわからない。そしてそれを想像してしまった自分をまた責めるのです。

4という数字は不幸を呼んでしまう。。

だからメールの絵文字の数も4つにならないように、4行にならないようにだとか、いろんないろんなことで自分を縛り、責め立てます。

『…なにそれ、へんなの!』

そうです、へんなのです。異常なのです。

そんなことで人は絶対に死なないのに、不安で不安でたまらなくなったり、懺悔してしまったり、自分をこれでもかというほど責めるのです。自分がやるべきことをしなかったせいで大切な誰かによくないことが起きるのではないか。

そういう風に思ってしまうのです。

とても厄介で、とてもツラい病いなのです。

 

今まで私は、それは自分の性格だと思ってきたのでまだ完治するということが想像できません。

ただ、強迫性障害と闘う上で重要だなと日々感じるのは、荒療治。

私が思うに、歴史的に有名なあの"踏み絵"。

あれです。強迫性障害者は、ある意味何かの絶大なる信者なのです。

私は身の周りのものに、ばい菌がたくさん見えていたので、学校の水道の蛇口をさわれなかったり、机の上に落ちた箸を使えない。など、いろんな壁がありました。それらをあえて触ってみたり、使ってみたり、手を洗いたくても洗わずにいたりしました。最初、そりゃもー気持ち悪くて気持ち悪くてしかたありませんでした。死ぬ!死ぬんだ!と毎回覚悟を決めて行っていました。そしてそれをしても死ぬことはないとわかると、徐々に平気になってくるのです。

口の中にばい菌が入っているような気がするときがしょっちゅうあって、いつもツバをペッペッ、ペッペしていました。それも行儀悪いし、やっちゃダメとわかっていても、口の中が気持ち悪くて仕方ないのです。死んでしまうのではないかと思ってしまうのです。それをあえて、飲み込む。そうやって荒療治をしてきました。そうしてどんどん、まぁいっか。まぁ大丈夫。を増やしていきました。

 

小学2年生の時に母親にUFOキャッチャーで、コリラックマのぬいぐるみをゲットしてもらいました。

未だにそのコリラックマを両手に掲げて、まんべんの笑みを浮かべ、取ったどーー!正確には取ったよ!取ったよ!ですが、そう叫びながら走ってきた母の姿を鮮明に覚えています。

そしてその日から毎晩一緒に寝て、学校の行事でどこかに宿泊するときも、旅行にもお泊まり会にもこっそり連れていき、ずーっとずっと一緒でした。それが日課になり、習慣になり、絶対ルールになりました。

また、コリは私の絶大なる味方で、母の一部のように感じているのかもしれません。だから、傷つけたり、ましてや踏んだりなんて絶対にしません。大事に大事に愛して、愛しています!!!そう、私はコリの信者なのです。

なので必要なのは、"踏みコリ"。

とはいえ、それをやるのはまた今度!!笑汗汗💦

それはまだ克服してないという。笑

 まぁ、いっか。…笑

 

 

もし、強迫性障害者の人に、私だっていつも何かに追われてるんだから。とか、それ全然できていないわ。とひどく否定したり、責め立てたりしてしまうと、その人はとことん自分を痛めつけ、自分を追い込んでしまいます。

だからといって、仕事で、できていないことをできていないよと言わないのは、その人にとっても良くないことです。

なので、そんなときは、怒ったり、責めたりせず、こうしたらどうかな。こういうやり方もあるよ。と広い器で、優しく教えてあげてほしいです。

その人を責めるのはその人だけでもう十分なのですから。

強迫性障害を抱える人も、ゆっくりとでいいので、挫けず、一つずつ壁を乗り越えていくことが大切だと思います。まぁいっか、まぁ大丈夫。という余裕を自分の中に少しずつ増やしていくのです。

 

なんだかストレスてんこ盛りなこの人生を

楽しく、幸せに生きたいならば、

 

ストレスな時間をいかにストレスレスに過ごすか、いかに楽しく過ごすかが鍵であると思います。

 

嫌いな人と話すのはとてもストレスが溜まります。

もしその人と2人きりになるなんて大変ストレスです。

でもそこで、この人嫌い。と終わりにしないで、なにか一つでもその人のいいことろを見つけるのです。

 まず、人に興味を持つということは大切です。

その人にもその人の人生があり、辛い何かを乗り越えここまで生きてきて、その人には親がいて、もしかしたら子どももいて。深入りするとはまた別で、その人を広く深く受け止めるのです。

 

とはいえ、嫌いな人は誰にだっていますよね。

嫌なものは嫌ですよね!はい!当然です。

 

 

好きになれなくても、まぁいっか。笑))

 

楽に楽に。

 

まぁ、いっか。